2012/03/07
目の前の壁にビシビシビシと亀裂が入り、頭上の空調機の留め金が引きちぎれるのが見え、慌てて近くの机の下にもぐりこんだあの日。外に出てみると道路に面したガラスは粉々に砕け散り、急に空が暗くなって猛烈な吹雪が襲いかかり「この世の終わりなのか?」と、原初的な恐怖に慄然としたあの日。
津波で洗い流された南相馬の何も無い海辺。うららかな春の日差しに温められ、土に染みこんだ海水は霧のような蒸気となって辺り一面に立ち込めていた。空の青さとたゆたう白もやの単色の世界に、染み出るように、誘うように、赤い何ものかがぼんやりと見えた。近づいてみると、それは備えられた花束と小さな鯉のぼりだった。
私はこの茫漠とした地で、何かを恐れ、何かに怒り、そして手を合わせた。
ボランティアで訪れた南相馬の避難所では「なんで東京の電気のために俺達がこんな目に遭うのだ」という怨嗟を度々聞いた。「原発のせいで娘を探しにも行けない。ほっといてここから離れるわけにはいかんのよ。」悲しみと怒りに満ちた遠い眼差し。
あの日から一年が経とうとしている。悲しみは癒えたのか、怒りは収まったのか。
この街で繰り広げられる平穏な日常。そのホメオスタシスの強靭さには瞠目すべきなのか。それとも・・・。
今年3月11日には、ここ郡山で「原発いらない!3・11福島県民大集会」が行われる。「福島」での原発には反対するそうである。原発の不条理を骨身にしみて知った福島の人々、原発さえなければと臍を噛み続けている福島の人々。しかし、福島から全国へ、反原発ののろしが燎原の火のように広がることは、ついぞ無かった。そして、これからも無いだろう。決して。何故か?
地震の後、家族の安全と、水道、ガスがダメ、電気は通じていることを確認した私は、すぐにリュックを背負って自転車に乗り、営業している店を探し回った。一つだけ開いているコンビニを見つけ、水とパンをリュックに詰めるだけ詰め込んだ。行政は機能不全、水もガスも復旧しない、下手をすると建物が立ち入り禁止になるという最悪の事態を想定したからだ。しかし、多くの人々はただただぼーっと行政の支援を待つばかりだった。この、行政への無垢な信頼、否、病的な依存は果たしてどの様に培われたのだろうか?
3.11の夜、テレビで原発の全電源喪失、冷却機能の停止が伝えられた。私は冷却機能停止→メルトダウン→水蒸気爆発→致死的な放射能の大量放出という因果をすぐに想起した。その翌朝、ぐしゃぐしゃの自宅で奇跡的にパソコンが生きており、すぐに福島からの脱出を決断し飛行機の予約をした。最悪の事態がきっと起こるだろうという直感的な確信を持っていたからだ。その2ヶ月ほど前に、広瀬隆氏の「原発時限爆弾」を読んでいたことが寄与したことは間違いない。しかし、この確信は付け焼刃の知識で生まれるものでは無い。それよりもずっと以前から折に触れて読んだり見たり考えたりして蓄えられた長期記憶による確信だった。私の義父はその確信をせせら笑い、避難が大層不服そうだった。が、私の確信は揺るがなかったし、その日の夕方、1号機が水素爆発を起こし、私の直感がおおむね正しかったことが証明された。その時の説明。「爆発弁の開放」「爆発的事象」。そして、私のような素人でさえが想定できるメルトダウンの事実はその後2ヶ月間ずっと隠蔽され続けた。それは何故か?
3月15日に原発から20kmから30kmの地域は屋内退避地域に設定された。25日になって、枝野が屋内退避地域の人々の自主避難を促がした。自主避難?勝手に逃げろって?政府には責任無いってこと?私はこの時「あっ、こいつら補償金をケチるつもりだ」と直感的に確信した。そして、東電、政府はいろいろな言い訳、ゴタクを並べながら、結果的に、事実上補償金をケチり続けている。そして、それに文句をつける人は、今のところ、極めて少ない。それは何故か?
福島市や郡山市でも高い放射線濃度が計測され始めた直後、胸部レントゲン一回60μSv、それに比べれば今の線量などは恐るに足りぬ、安全だとテレビでも新聞でも喧伝された。しかし、テレビで汚染地の線量を説明するときは「毎時」が意図的に削除されていた。フリップボードでは「/h」が明記されているにもかかわらず。テレビでも新聞でも、放射線量の危険度を示す逆三角形の図が示された。レントゲンの線量、CTスキャンの線量、ニューヨーク往復航空機で浴びる線量。しかし、この図には必ず「一般公衆の年間被曝限度量1mSv」が明記されていた。
何故、とても頭の良さそうなテレビキャスター、エリートアナウンサーや識者が、小学生の算数レベルの計算もできない愚か者に、かくも容易く成り下がるのか。稚拙な欺瞞が平然と流布され、そして多くの大人たちは、それを信じた。何故か?
さすがに、福島県民は小学生レベルの算数さえできない馬鹿ばっかりの訳が無く、すかさずミスター100mSvが投入された。山下俊一は言うに及ばず、学校開始前、毎日何度もNHK福島で100mSv安全神話を騙り続けた小出五郎も同類だ。そして、この100mSv安全神話は政府自身が墓穴を掘ってあえなく崩壊する。原発推進民間団体のIAEAが飯館村の土壌が危険レベルだと、退避勧告を言い出したのである。始めはシカトを決め込んでいた政府が、どういう海外からの風の吹き回しか、4月末になって、これも悪名高きICRPの基準に従い年間20mSvを越える飯館村から村民を避難させると発表した。これにびっくらこいたのは、その頃余裕で年間20mSvを越えそうな福島市や郡山市の人々だった。すったもんだがあったのだが、絶対に政府は避難を認めなかった。年間1mSvを目指すとの言質をとったのも束の間、警戒区域の住人を帰還させるために原発終息宣言後、年間20mSvの基準が復活してしまった。そして、このように極めて胡散臭い20mSv基準に、多くの人々が抗うことを止めてしまったのは何故か?単に倦み疲れただけなのか?
今の平穏な日常は数々の欺瞞と詐術の上に成り立っている。この地、そして日本の権力の、強靭なネガティブフィードバックの裏側で、実はこの日本の底が抜け、崩落はその加速度を益々強めているのではないだろうか。
近代以降、生命、身体、財産は、誰もが勝手に侵害されることの無い、侵害することが許されない、人としての基本的かつ当然の権理(権利とも書く)と観念されてきた。これらの権理が、国家や独占大企業によって、どれほど容易く剥奪されるのか。そして、さらにより重大なのは、人々がどれほど易々とこれらの権理を自ら手放し、残虐行為に進んで加担するようになるのか。ナチス・ドイツのファシズム理解のために、繰り返し分析された論点である。
健康被害ではおさまらない、この国の有り様、経済、社会、心理を包含するカタストロフィーへの慄(おのの)き。「終わり」の始まり。
3.11より一年、行政、マスメディア、そして、日々放射能への耐性を、飛躍的に進化させるらしい突然変異種、フクシマ人は、「明るい未来に向けてさあこれからだ、くよくよしても始まらない、復興ののろしを今、高々とあげるのだ」と恥ずかしげも無く言い募るのか。
私は3.11の地震と4月11日の余震で、片付けるのをあきらめ、ダンボールに詰め込んでいた書籍から、学生時代より親しんできた、茶色く黄ばんだ古い蔵書を何冊か引っ張り出した。
私の直感と慄(おのの)きは単なる誇大妄想による幻視であろうか。
「人権侵害」といえば「あっち系の人?何かの宗教にかぶれてる?」、「立憲主義」といえば「それは何ですか?食べられるものですか?」という状況下、ファシズムを論じるのは難しい。だからこそ、3.11から一年を経過する次回より「ステルス・ファシズム」という概念を提示し、崩落しつつあるフクシマとニッポンを読み解いてゆこうと思う。
そして、ぶりっ子の「ですます体」は、やはり性に合わないので、止めますです。ハイ。
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