原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/02/17

4.無用な被曝を与える政府

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学校での被曝に対する暫定基準年間20mSvが決定してから、3.8μSv/h以上の学校は、屋外での活動を一日1時間までとしました。そして、3.8μSv/h未満の学校は今まで通りの生活を送ってよいですよ、と言われました。無茶苦茶だと思いませんか?

うちの子どもが通う学校は3.7μSv/h、つまりギリギリ。いったいどういう根拠があってこんな計算になるんでしょう。暫定基準自体を高いと全く思っていないからこんなことになるんでしょうが。

そもそも放射線管理区域は、3ヶ月で「1.3mSvを超える危険がある場合」であって、決して「1.3mSvまでは大丈夫」と言う意味ではありません。

1.3を90日で割って24時間で割れば0.6μSv/h。震災前は0.05μSv/h前後だったんです。

学校がといいますけど、どこもかしこも全部がそんな状態なんです。3.7μSv/h って、平常時の74倍です。

労働安全衛生法には放射線管理区域に18歳未満の子どもはいてはいけないことになっているんです。何故そういうことが決まっているか、素人だって考えますよね?子どもは感受性が高く、大人よりも被曝しやすい条件が揃っているからです。

「子どもは働かないから」誰かがそんな事を言ってましたが、ホント他人事です。というか、血の通った人間が言う言葉でしょうか。

その頃そんな状態だったんですから、素人に除染をどんどんさせるのは当然かもしれません。

学校も判断ができず、それぞれの学校でも混乱していました。

中学に通う二人の子は、4月末に、校庭で活動していいかどうか、保護者の承諾書を提出するよう言われて帰ってきました。

「みんな、どう書いてるんだろう・・・」困って私は友人に電話で相談しました。しかし皆バラバラ。

うちの娘はバスケをやっていたので、屋内だから未提出でいいかなと思っていると、娘が「ちゃんと書いてね、自分だけ仲間外れにされると困るから」と言ってきました。メンバーに連絡したら、皆記入していました。その中でもやもやした気持ちだったのは私以外にもいましたが、やっぱり同じ状況だったので、おかしいと言いながらも仕方なく記入してしまいました。

しかしサッカー部の息子は、屋外の活動、聞くとさすがに心配なお母さんが結構いました。なので、提出しませんでした。

つまり娘は屋外に出して、息子は出さない。

校長先生にその事を言ったら、そうするほかないと。

これって、親の責任だから、いやなら徹底して出さなければいいことなんでしょうが、何故こんな思いをしなくてはいけないんでしょうか。あんまり考えずに書いて提出してしまったほうがほんと楽ですが、法を破っているのは政府なんです。一人一人の大人にそこをちゃんと理解してほしい、おかしいならおかしいと言ってほしい。

除染が本格化し出したのはこの2ヶ月後ぐらいですから、今まで大量の被曝をさせられてきたことに気づいたって、もう遅いから、しょうがない、そうやって、あきらめてしまう。

放射性物質のことはもちろん、原発に対しても今まで全く考えたこともなかった人達は、時間が過ぎれば目にも見えないし、痛くも痒くもないものですから尚のこと気にも留めなくなります。

あの頃、どのぐらいの放射性物質が降っていたのかと思うと、悔しい気持ちでいっぱいです。あの時誰もわからないで物資不足、ガソリン不足の中生活していましたから。なんとなく噂で気をつけたほうがいいと聞いていたから、気を付けていただけです。

テレビで専門家は「そんなに気にするほどではないが、心配であれば肌を露出しないようにする、マスクをする、うがいや手洗い、外から帰ったら服を払う、靴の底を洗うなどするといいでしょう」といった、防護策が多いわりに楽観視したような表現をしていました。

テレビや市政だよりや新聞しか見ない人、高齢者は特に、この専門家をそのまま信じるほかありません。

反抗期の子ども、特に中高生はマスクをしなさいと言ってもなかなかしてくれません。

マスクをしろとか、土を触ったらいけないとか、なるべく窓は開けないとか、厚くても長袖を着なさいとか、そんな異常なことを毎日気にしながらの生活はそう長くは続かないです。誰だって当たり前の生活をしたいんですから、やがてそれが面倒になって気にしなくなります。政府の思う壺、結局言うことを聞くことになってしまうのです。

矛盾だらけの毎日がこの先いつまで続くのか、どこまで耐えられるのか、そう思う人は私だけではありませんでした。

5月23日、福島から東京まで、怒りをぶつけに文部科学省まで行くという企画があり、それにはどうしても行かなければ気がすまなかった私は、職場の上司に理由を話し、無理を言って休みを頂き参加しました。5歳の子どもも連れて行きました。

福島からバスに乗ったのは60人ほどでしたか、東京に着くと、600人以上の人達が集まっていました。本当にびっくりしました。

ツイッターで繋がっていた人達にも会いました。震災に合わなかった人達が、これほど心配して来てくれていることに、本当に頭が下がる思いでいっぱいでした。東京に避難していた福島の人達もいました。あの震災の時、着の身着のままで双葉町から逃げてきて、川俣で出逢ったご家族とも、文科省で再会しました。

私が川俣に洗濯に行ったときにたまたま年配のご夫婦に声を掛けられ、そのお母さんが

「あなた、ぼろのストッキング1枚でいいから持ってない?あれば貰えないかな、大家族で身一つで逃げてきて、とても寒くて、靴下も履いているのを脱いで洗って車のボンネットの上で干してまた履いているの」

と困っていたので、すぐうちに連れて行き、着られそうなものや必要なものを出してくると、本当に喜んでいました。「ありがとう、ありがとう」と何度も言っていました。その後そのご家族は避難所で過ごした後、東京にいました。度々電話で話していましたが、文科省で逢えた時は、あの頃を思い出し、元気そうで嬉しくて涙が出ました。

いつも、そのお母さんには言われていました。

「あなたがいなかったら、今こうしていない、感謝しているよ、私達はもう双葉には戻らない、別の場所で新たに生活をする、だから子ども達のために、あなたも動いてほしい」

と。

その必死な言葉は、今も心に沁みついています。

今福島に何が起きているのか直視すべきなのは、私達一人一人の大人全員なのです。

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