原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/02/09

3.判っているはずなのに教えてくれない大人達

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放射線量は5月、外は常に1μSv/h 以上ありました。土を測定すれば2μSv/h はありました。家の中でも、0.7μSv/hや0.8μSv/h、今現在、年明け1月でも0.4μSv/h以上を示します。外もだいぶ下がったとはいえ、放射線管理区域だと言うことは明確なのに、認識の差があり、ほとんどの人達が意識していません。

気付き始めてから、生活が一変したことは述べましたが、本当に仕事が手につきませんでした。頭の中で、何度も自分に「切り替えよう、切り替えよう」と言い聞かせていました。

政府、福島県は、私達県民に対し「とりあえず落ち着いてくれ」と言わんばかりの対応に感じました。すべてが後出しで、データも本当なのか、信用はなくなっていました。しかし、新聞やTVしか情報を入れない人達は、それを信じるほかありませんでした。

4月、飯舘村の線量を掲載した週刊誌がありました。

その中身は、実際に国で発表する数値より遥かに高い線量を計測したもので、年間20mSv などあっという間に超えてしまう線量で、さらにその数値を全く知らず、高い線量の場所に避難していた人達がいたのです。

たまたま測定してくれた人がいたから判っただけで、測定してくれる人がいなかったら、ずっとそこに居続けたわけです。

その週刊誌は、福島だけ発売されていないと聞きましたが、もしされていたとしても流出した数は少なかったかもしれません。私はコピーを頂いたので、知ってすぐ、飯舘からきている職場の人に「飯舘大丈夫なの?」と言っていました。

その後、しかも連休明けでした、避難指示が出たのは。どうしてこんなに遅いのでしょうか。

一緒に川俣町の山木屋地区も線量が高く、避難区域に指定されましたが、それから、避難場所探しが始まりました。

町で借り上げてしまった空家はすぐに埋まってしまい、他は個人で市内のアパートを探したり、仮設住宅が福島市飯野町松川町伊達市保原町などに建設され、避難者は各地にバラバラにされてしまいました。家の近所にも随分避難者が来ていました。

自宅があるのに、出なければいけないなんて、ふざけるなと言いたい気持ちでいっぱいだったと思います。もちろん、動かない人達も居ました。動かない会社もありました。どちらの行動も当然です。せめてもっと早く強制避難させてくれていたら、また違ったのではないかと思います。

この頃は、米の作付けをどうするかが、大きな問題でした。

しかし国は高い暫定基準値を掲げたまま、何も知らない県民に米を作らせました。

この米はどうなるか。暫定基準以下なら、何の問題もなく出荷されるのです。それは全国に流出し、何もなかったかのように売られますが、判っている人は買いません。その前に、判っている人は、米の作付けもしませんでした。

私の住む飯野町は田んぼが多かったのですが、周りは皆田植えしているのに、一角だけ、作付けしていない田んぼがありました。その田んぼの持ち主は、医者でした。結局、判っているから米を作っていないのです。

いろんな事情はあるにせよ、何故皆に教えてくれないんだろうと単純に思いましたが、他の農家はその米を作って売って生活している訳で、もし「作らないでくれ」と言ったところで、その農家の生活の保障ができるわけがない。農家も作ってみないとわからないし、売れなかったら国や東電に保障してもらうしかないんです。

医者は医者の収入があるから田植えしなくたって食べていける・・・。

でもそれはなんとなく、理不尽というか、不公平な気がしました。

人間味が 心が、なくなってしまうと思いました。

保育所の所長先生が言っていましたが、近所の医者が、定期的に学校の校庭など、測定にきていたそうです。その時医者は「この数値だと普通は管理区域なんだけどなあ・・・」という感じで、話していたそうです。

医療現場に携わる人達は、少なくとも放射線管理区域が職場にあるわけで、全く知らないわけではないと思います。医者ならば特に、放射線の知識はあっていいはずだし、わかる範囲でも、伝えなければいけないのではないかという責任感が湧いて当然のような気がします。なのに地域全体が、のんびり構えているようでなりませんでした。何のための医者なんだろうと、疑問も感じていました。

「放射線」に対する見解は様々ではあります。しかし、今まで何年も掛かっている問題や、事例、国の隠蔽するような体質を取り上げればきりがありませんし、でもそこに注目する大人がもっともっといてもいいのにと思います。

生物に対して当たり前に存在する放射線以外の、人間が作り上げた放射線の影響は安全なものではなく、今の福島や、高線量地域の状況は決して安心できたものではないはずです。「しょうがないじゃないか」は大人の勝手な都合です。これからの子ども達はそんな大人になってほしくありません。

私達のような国民は、こうして陰で言い続けることしかできないのでしょうか。何かできないのでしょうか。

国を動かすことなど考えたこともありませんが、そのぐらいの勢いでやらなければいけないんだという思いはあります。一人の力では何もできませんが、思いや、事実を伝えることは、知り得た人からでも続けていかなければならないと、毎日を過ごしていました。

ですから本当に一日一日が、あっという間に過ぎていきました。

測定器を手にしてからは、近所や友人、職場の測定もしていました。地域のあちこちを友人と車で測定して回ったりもしました。それから、ツイッターで繋がった方にマスクをたくさん頂き、町の保育所や幼稚園にチラシをつけて配ったり、北海道からジャガイモとにんじんの支援を米袋で山ほど頂いて、友人や近所に分けたりしました。

避難区域でなくても線量が高い地域で生活する私達は何の保障もありませんでしたが、「支援」されているんだという認識は、じわじわと感じていました。本当に、ありがたく思いました。でも国は、全くと言っていいほど私達の意見は無視し続けています。

今現在、まるで原発事故がなかったかのような空気です。

この空気に、せめて子どもは慣れてしまわないような大人達の対策が必要と感じています。

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