原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/02/02

2.放射能が拡散して始まった戦い

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震災から1ヶ月、子どもは学校に通い始めましたが、長袖マスクはもちろん、土に触れてはいけないという、異常な状況におかれていました。ということは、校庭や屋外での活動が思うようにできないんです。

それは今まで未経験なので、正直なところ「まさか」と思われる人のほうが多かったのではと思います。

でも、公表されている数値が人体にどんな影響を及ぼすのかも「わからない」し、目の前の庭や道路の数値も測定器がないから「わからない」し、痛くも痒くもないわけで、信じるのはテレビや新聞の報道のみ。後はネットをいじる人はそれで調べるぐらいでしたから、それぞれがいろんな見解で捉え始めていました。

「放射線」と言えば、レントゲンが一番身近なところですから、医療関係に携わる人はある程度の知識はあるはずです。しかし余計なことは言わない方がいいという感じでわざわざ教えてはくれません。

でも、私の知り合いの先生は、震災が起きた当日に知人からの連絡で、これから爆発が起きるかもしれないから逃げろと教えられたために、11日には避難していました。

福島市長自身、市民に黙っていち早く避難するような行動をしていたことはご存知の方もいるでしょうが、どうして一部の人間しかわからないのでしょう。何故国民全員が平等に知らされないのでしょうか。パニックが起きないようにするためにという言い分はまるで言い訳にしか聞こえません。そして、何かを隠しているとしか思えません。

4月半ばに、3.8μSv/h 以上屋外制限が掛かった時、うちの子供が通う学校はギリギリ制限以下でした。つまり、思いっきり外で遊びなさいと言われたのです。その数値には都合のいいようなカラクリもありましたが、私達を馬鹿にしたやり方を平気でしてきました。そもそも「大丈夫」と思っているのですからちょっとした改ざんは通用させるのでしょうが。

でも全く専門的知識のない不安な親達も、なるべく外ではマスクをつけさせ、できるだけ外出には気を遣うようになっていました。

その頃から、ツイッターを始めました。ツイッターは、震災時、かなり活用していた方は多かったようですが、それは今も継続中です。

ツイッターでは現状をいつも呟いていました。「見てくれている人は見てくれている」と信じて。

4月下旬、屋外制限が掛かった学校向けの説明会が行われました。該当してはいませんでしたが、納得いかないことだらけで、一般参加もOKだったため私も一人でそれに参加しました。

厚生労働省、教育委員会、放射線の専門家といわれるような方々が揃って前に座っていました。

その時、放射線管理区域や労働安全衛生法については全く説明はせず、屋外制限基準を 3.8μSv/h にした理由を述べ、そもそもは全然大丈夫なものなんだと言うような説明の仕方をしていました。呆れるばかりでした。

発表している放射線量とともに、放射性セシウムという物質についても公表していました。

放射性物質には色々種類があり、さらにどこもかしこも拡散している放射性物質は、すべて満遍なく調べなければ、どこにどんな物質が落ちてきているかはわかりません。

そしてその数値は、雨や風で日々変動もします。

国ではただ、その測定した日の数値だけを基準に、制限を出しているということになります。笑っちゃいます。

子どもの学校は、屋外制限が掛かった学校よりも、セシウムの量がかなり高く出ていました。でも、放射線量が 3.7μSv/h だったがために、普通に遊んでも大丈夫と言われました。セシウムの数値と、放射線量は、比例するものではありません。

それについて質問はしましたが、はぐらかされました。

「でもこれだけ不安な思いをする親達がいるんですよ!この決め方、おかしくありませんか?こんなチマチマした決め方するよりも、もっと避難区域を広げてくださいよ!」と言うと、いきなり拍手が起こりました。皆、同じ気持ちだったんです。

びっくりしましたが、なぜか「ここは制限が掛かった学校だけの説明会ですから」と言われました。意味がわかりません。

全く納得いかないまま帰宅し、法律で決まっている数値を改めて確認、さらに怒りは増し、私はすぐ子ども達が通う保育所、小中学校の校長先生に伝えに行きました。

その日に、不安に思う人達の集会をネットで知り参加しましたが、100人以上いました。

自分と同じ感覚の人がこれだけいたんだと、その時知りました。そこではそれぞれが今思うことを話し合い、今後どういった行動をしていくかなども話しましたが、全然時間が足りず、でもそこから繋がりを徐々に広げていきました。

5月に入り、私はたまたま定点観測を頼まれ、簡易測定器を手にしました。まだまだ普及していなかった頃でしたし、ウクライナ製のもので、とにかくあちこち測定していました。通常の数値ではないことは明らかでした。

5月と言えばゴールデンウィークだったのですが、私の住む町でも同じ思いの人はいないか、友達にも声をかけたりして、休み中急遽集会を設定したりもしましたが、全然集まらず、何人かは意識していましたがほとんどは「まあ大丈夫だろう」と思っていたようでした。

その状況には本当にやるせない思いでしたが、仕方がないことでした。でもじっとしていられず、情報だけは、なるだけたくさん入れたくて必死でした。

5月半ば、その頃はもう30度を越えるほどで真夏のような日が続いていました。私は普通に娘を保育所に預け、自分を抑えながら仕事をしていました。先生方も心配してくださり、戸外遊びは控えていました。エアコンもつけていませんでしたし、窓もなるだけ開けないように配慮していたようでした。

しかし保育所の中は、30度どころではないほど暑く、大人の私がただ立っているだけでもじわっと汗が出るぐらいのその中で、子ども達は毎日下着姿で汗だくで走り回っていました。

私は仕事で車に乗り、エアコンをつけて運転している時でした。ふと保育所の子ども達を思い出し、涙がこぼれてきて、すぐエアコンを止めました。

その後保育所に電話していました。

「先生、少しでいいからエアコンつけてやってください!それか、窓開けてやってください!なんかやっぱりこんなのおかしいですよ・・・」と泣きながら話していました。

先生は私の話をいつも真剣に聞いてくださっていましたが、先生も限界がきたのか、数日後、少しづつ戸外遊びをさせると言い出しました。

お便りできてすぐ保育所に引き返し、先生に「土の上は絶対やめてください!まだ何も手をつけてないじゃないですか!」と説得し、次の日に、測定器を借りた方にお願いし保育所まで飛んできてもらい、炎天下の中、三時間もかけて園内の20ヶ所ぐらいを細かく測定して頂きました。

先生はその数値がどういうことなのかを、測定の方に黙って説明を受けたあと、頭を抱えてしまいました。

とにかく数値が高く出るところがあちこちにあったのです。

結局は除染する8月まで、戸外活動はしませんでしたが、除染しても未だに控えめな活動が続いています。

子ども達はもちろん、大人も、どれだけ我慢しているかを知ることは、汚染された場所に住むものにしかわからない辛さだと思います。

こんな状況だから、我慢したくない人は、必要以上に考えなくなり、「温度差」が生まれてくるのです。考えれば仕事や生活に支障をきたすからです。

でもわかっていたって仕方なく生活する方を選んでしまうのです。騙されているとわかっていながらも。

それで本当にいいのか、国民みんなの力が必要な時です。

その頃私は、ツイッターで呟いていました。

5歳の娘が夜「暑い」と言うので窓を少しだけ開けた。
大きく息を吸い「あー涼しくて気持ちいい」と娘は言った。私はすぐに窓を閉めた。
悔しくて涙が止まらなかった。

放射能を考慮に入れなかったら、意味がわからないかもしれませんが、わかった人はリツイートしてくれていました。

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