2012/03/31
私は、この草稿で「権理」という言葉を多用する。しかし、「権理」、「人権」、「権力」などという言葉を迂闊に口にすると、もういけない。あっという間に「左翼」とか「偏った人」というレッテルを貼られて忌避される。例えば子供を守るために集まった人々の中でも、政府との交渉はあくまでも交渉であり「反権力」という行為では断じて無い、という雰囲気むんむんである。私から見れば立派な「権理」の主張であり公権力への対抗なのだが。どうしても「そっち系の人」と見られるのは嫌なようである。
まして、そのような活動にもコミットしない「平穏な日常」を漫然と過ごしている人々のアレルギーは相当なものだ。思っていることが言えない、分断されている、閉塞感がある、何よりも今の状況が本等に安全なのか、という悩みは大多数の人々が共有しているように見える。話せてよかったと涙する人もいる。しかし、「権理」だの「権力」だのという言葉やそんな雰囲気を表に出すと、たちまち一線を画されてしまう。
「権理」や「権力」という言葉が共通言語として認識されないこと、ここにこそ、私は、マスメディアや政府、自治体、に良い様にやられてしまう弱みがあると思っている。「権理」や「権力」に無頓着で、その意味を考えずにいても、3.11以前ならば、運任せで、何とかなったかもしれない。しかし、3.11以降は「権理」や「権力」に無頓着でいると、自分達が何をされているのか、何をしているのかその本質を理解することはできない。「ファシズム」の本質も理解できない。だから、私はまずこれらの言葉について、今回と次回に渡り、私なりの考えを述べてみたいと思う。
私は「権利」という言葉は使わずに意識的に「権理」という言葉を使う。「権利」と書くとその「ことわり」は利益とか実利に矮小化されてしまう嫌いがある。また、これから述べる「倫理」との関連性を切断してしまう恐れがある。
「権理」は誰もが勝手に侵害されることの無い、侵害することが許されない、人としての基本的かつ当然に持っていると観念される理(ことわり)である。別に難しいことでは無い。命を奪われたり、体や心を傷つけられたり、持っている物を盗まれたり、壊されたりして喜ぶ人がいるだろうか。自分の考えと違う行為を強制されたり、自分の意見の表明を邪魔されたり、集会への参加を機動隊の小僧にアクリルの盾で妨害されたりして(あっ!これはあんまり汎用性がねーな)、良い気分でいられる人がいるのだろうか。
「権理」に無頓着で、その内実を、実体験を通して考えたことの無い者は、「義務」や「責任」の範囲についてもおぼろげな認識しか持てない。「義務」や「責任」の範囲が解らなければ、その範囲の確定を第三者に依存するか、過分な責任を自ら背負い込んで、おどおど萎縮して過ごさなければならなくなる。
避難をするにも家のローンが有ってどうしようもない、という人は多い。しかし、ローンを滞納したら警察が来ると思っている人が、実際に何人もいることには驚いてしまった。民事責任と刑事責任の違いを知らなければ、とてもローンの借り換えや減額交渉などできはしない。まして、いざとなったときの自己破産手続など別世界のことである。
逆に、「義務」や「責任」の範囲が解らなければ、過大な責任や義務を相手に求めるモンスターになる可能性もある。「権理」や「義務」、「責任」について知らなければ会社勤めで責任のある立場になると苦労することになる。クレーマーやヤクザとまともに対峙することもできない。何の義務も責任も負う必要が無いのに、言いがかりをつけられて、机をバンッと叩かれたら震え上がって、言われるがままに金品を巻上げられていては、とても会社の利益も自分の部下も守ることはできない。「権理」は日々の生活の中で極ありふれた観念なのである。ただ単に、多くの人々は無頓着に看過して、そのつけとして余計な重荷を背負っているのである。
「倫理」は「権理」を包摂するものである。たとえ適法であっても、たとえ法的な責任は問われないという確信があっても、これは人としてやっちゃあいかんでしょう、という、第一義的には自分の内面的な規範である。逆に法的には何の義務も責任も無いけれど、これは人としてやらねばいかんでしょう、というものもある。3.11の大災害後、多くの人々がこの思いに駆られて参加したボランティア活動がその良い例だ。さらに、たとえ、その時は違法であっても、その行為が人々の琴線に触れるとき、その人は「信念の人」「偉大な人」として歴史に残ることになる。黒人差別と闘い、暗殺されたマーチン・ルーサー・キング牧師などがその例だ。
「権理」は「倫理」の一部を明文化した外部規範としての役割も持つ。しかし、「倫理」は基本的には個人の内面的な規範であり、万人に適用される明文化されたものは無い。それ故、「倫理」とは程遠い力学で動いているこの社会において、「倫理」を参照しながら明文化された「権理」を理解することがなければ、「倫理」は内面の規範としての力を失う。
人は幼いときから「嘘をついてはいけない」「約束は守れ」「弱いものいじめをするな」「卑怯なことをするな」「困っている人は助けろ」など、「愛(アガペー)」や「誠実さ」などの「倫理」を親や教師から教えられ、自分の生活体験や感情の動きから「倫理」を体得する。しかし、日本の教育では「権理」については、まともに教えられることは無い。せいぜい、大学の法学部で机上の「権利」を学ぶくらいだ。少し、社会に目を開けば「倫理」などとは程遠い世界が蔓延している。「権理」を学ばなければ「倫理」はどんどん内面の規範としての力を失う。「倫理」は外部化し自らの行動を縛る単なるしがらみに堕してしまう。絶えず人目を気にし、メディアや他人によって刷り込まれる一貫性の無い「倫理感」に振り回され、結局その行動原理は利害損得に頼らざるを得なくなる。「権理」の裏打ちの無い「倫理」は極めて脆弱であり時には危険である。
他方「倫理」の裏打ちが無い「権理」は、時として邪悪である。これは説明するまでもないだろう。議員や役人や首長はせっせとフクシマの子供や大人の生命、身体、財産を毀損しまくっている。奴らの言い訳は「適法に対処しています」もしくは「法的根拠はありません」ということだ。閣僚どもや御用学者どもは「このレベルの放射能は安全です」と主張する。単に健康被害と放射線の因果関係など立証できっこないんだ、と高を括っているだけである。民事責任も刑事責任も問われるはずが無いという、自分たちの「安全」を宣言しているに過ぎない。ここには「倫理」など鼻糞ほどにもありはしない。
特に閣僚や首長などの公権力保持者が「痛みを分かち合う」とか「絆」などという「倫理」に訴えるようなセリフを口にするときは要注意だ。そもそも奴らはそんな言い訳などしなくても現実化する権力を持っている。それにもかかわらず「倫理」を持ち出し、同意を迫るということは、その求めは大層後ろめたく、正当性に欠けると疑ってかかって差し支えない。
今喧伝されている、瓦礫の受け入れがその好例だ。まず受け入れ先の人々一人一人が自分の身体の健康についての「権理」を主張するのは極々あったりまえのことだ。それに対して政府は安全の証明ができているのか?むしろ細野は「風評被害が起これば賠償する」などとほざいて、安全への不安を自ら暴露している。「権理」の主張にたいしては我儘とか自分勝手とかいう「倫理」を騙った言説が流布される。しかし、島田市などは、市長が社長を勤め今はその息子が社長に納まる産廃処理会社が受け入れるという。受け入れ先の首長には利権の悪臭が紛紛としている。このような「倫理」を騙る言説こそ、利害得失にのみを目的とした戯言、虚言もしくは恫喝と言うべきだろう。
仮に受け入れ先の人々が自分の「権理」は多少犠牲にしても「倫理的」に受け入れるべきだと考えたとしよう。しかし、自分の「権理」を犠牲にすべき緊急性や必要性がはたして被災地にはあるのか。岩手や宮城の報道では、復興が進まない原因として、高台移転を阻む縦割り行政とその柔軟性の無さが繰り返し指摘されている。瓦礫が原因だとの報道など見たことも無い。被災地地元の首長からも処理施設を現地に作ってくれたほうが雇用も生まれ復興に役立つという声さえある。こんな状況では「倫理」は無意味であり、むしろ被災地の「権理」も受け入れ先の「権理」も損なう恐れがある。
瓦礫問題には真っ当な「権理」も「倫理」も無い。公権力による「権理」侵害の邪悪さがあるだけである。
「権理」や「倫理」を知ることは自己決定の自由を知ることである。逆に「権理」や「倫理」への洞察の欠如は、萎縮したちっぽけな自由に帰結する。「権理」や「倫理」の関係性を知らなければ、何か自分の心に引っかかるものがあっても、自ら判断して行動する規範が失われてゆく。容易く同調圧力に屈して判断を他に委ねることになる。こういうことを繰り返してゆくと、本来「権理」や「倫理」の大元となっている、自分自身が感じる身体的、精神的な苦痛、悲しみ、怒り又は心地よさ、喜び、慈しみに鈍感になってゆく。見てみぬ振りをするようになる。せいぜい残る判断基準は利害得失しかなくなってしまう。ここには自己決定の誇りも、清々とした孤独の喜びもない。萎縮したちっぽけな貧しい自由。今回のような大災害が起こると、嫌でも、自己の「権理」や「倫理」による自己決定が迫られる。しかし、今までその萎縮したちっぽけな自由さえ持て余していた者にはその重荷に耐えることはできない。容易く「自由からの逃走」が始まるのである。
今年の「原発いらない!3・11福島県民大集会」で連帯のあいさつを述べられた大江健三郎氏は「倫理的な責任」を強調されていた。私は上述した文脈で大江氏の「倫理的な責任」を解釈する。そして大江氏が「倫理」を持ち出さざるを得ない状況は、つくづく深刻だと思わざるを得ないのである。
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