2012/01/25
福島の農民は原発村の業界用語「風評被害」という言葉を廃棄すべきです。
私の妻の両親は北海道の道東の町で暮らしています。二人とも80歳を越える、年金生活者です。一昨年、お母さんが軽い脳梗塞で入院し、冬の寒さがきついということで、昨年の一月から三月の間、避寒をかねて郡山に滞在しているときに震災に遭いました。尋常ではない大地震の揺れ、避難を決めた震災翌日の1号機爆発、実家に帰りついた3月14日の3号機の大爆発などを経験し、ネット環境も無く、情報はテレビ、新聞だけなのに、放射能汚染の深刻さを本能的に感じ取って、せっせと北海道の野菜を送ってくれます。高齢で、荷造りも大変なはずですが、50歳を越えても子供は子供、娘夫婦の安全を願って大きな段ボール箱を送ってくれます。立派な白菜や大根などを取り出すとき、本当にありがたく、涙ぐんでしまいます。
前回、私はヨークベニマルを核汚染野菜の掃き溜め表現しました。ただ、消費者としてはそんな店は回避し、宅配などで他地域の農産物を入手する自由はまだあります。かわいそうなのは学校給食で福島産の作物を強制される子供たちです。文部科学省を頂点とする官僚、教育委員会の役人から現場の教師に至るまで、その冷酷無比な対応は正に鬼畜の所業です。平常値の約20倍の外部被曝に今もさらされ、性能実験も経ていないごみ焼却施設の旧態依然のバグフィルターが安全と強弁され、呼気から内部被曝を受ける。さらに食べ物からの内部被曝の危険に子供をさらす。こんな環境で少しでも安全な食べ物を食べさせたいと、弁当持参を主張するお母さん達を「農家の敵」と呼んで恥じない鬼畜どもと福島の農民は事実上の共犯関係に見えてしまいます。しかし、福島の農家を単なる共犯として切って捨ててしまうことはできません。
福島県の農家は3重の意味で生活の権利を剥奪されてしまいました。
一つ目は、勤め人が持つマイホームなどとは比較にならない広大な土地の汚染です。余りに広大すぎるので、所有権に基づく妨害排除請求などは始めから無視され、今現在も「除染」という、役に立たない権利の剥奪と無用な負担のみが課せられています。
二つ目は、いうまでも無く、作物の商品価値の毀損です。原発大爆発による広範囲の汚染により、3.11以前は0.5ベクレル/kg以下と言われていた放射性物質が、その何倍もの値で検出されることになりました。検出されて公表されるならばまだましですが、大部分の農作物は検査されることもありません。本来ならば3.11以前の値に戻らなければ、商品としての価値は損なわれたままです。同じ品質の農作物で価格も同じであれば、毒物の含有量が少ない商品が有利なのは当り前のことです。そして、政府は姑息にも検出されるベクレル数に見合った値で「暫定基準値」なるいかさま基準を素早く設定し、それ以下の値は「安全だ」と強弁したのでした。しかし、3.11以前の状態に全ての農作物が復帰しなければその価値は毀損されたままであり、「暫定基準値」はそれを誤魔化すための方便にしか過ぎません。
三つ目は「福島産」というブランド価値の破壊です。
福島県に移り住んで、最初のころに気づいたことがあります。宮城のササニシキ、新潟のコシヒカリ、山形のさくらんぼ、ラ・フランス、そば街道など、福島県の周りでは県名つきのブランドが有名で、それぞれの県がブランド価値を高める様々なキャンペーンなどに力を入れておりました。しかし、福島県にはそれら他県のブランドに負けない品質を持った、お米、果物、そばがありました。ただ「福島産」というブランドが人口に膾炙しているとは言いがたかったのですが、福島に移り住んだ私達からすれば、そこそこの値段で素晴らしい農産物を堪能できることは大きな喜びでした。福島市にも地味ながら「福島そば街道」というパンフレットがありました。福島市の信夫山の中腹にあるお蕎麦屋さんのお蕎麦は絶品で、本当に「うーん」と唸りながら堪能したものでした。JAの直売店にもしょっちゅう買い物に行き、大喜びで安くて新鮮な野菜を買い求めておりました。郡山市農協では「あさか舞」というブランドでコシヒカリやササニシキがそこらのスーパーで売っているお米とほぼ同じ値段で買うことができ、しかも無料で配達までしてもらえました。また、フルーツライン周辺の桃畑、りんご畑の花が咲く時期の景色は本当に見事で、残雪の残る真っ白な吾妻連峰を背にした里山の風景は、子供の頃に読んだ昔話のように懐かしく美しいものでした。農村の風景の美しさには、そこでのたゆまぬ努力と確かな技術で作物を育てる、農家の方々の力とプライドが溢れていると思います。例え「福島産」が華々しく取り上げられなかったとしても、そこには確固とした品質を誇る「福島産」というブランド価値がありました。
そして、原発事故によりその全てが台無しになりました。
2010年に県知事佐藤雄平が「福島イレブン」などという、具体的な作物を全くイメージできない、ネーミング自体が大失敗のブランドマーケティングを立ち上げたようですが、3.11以前はそのような姑息なアリバイ的な施策など無関係に「福島産」ブランドは確立していました。そして、3.11以降「福島新発売」などという愚昧なネーミングでそのブランド価値の修復を図ったようですが、到底そのブランド価値の毀損は修復できません。原発に「福島」と言う県名を冠するという全国でも稀有なネーミングも相俟って、「福島産」はブランドからスティグマへと転落してしまいました。
「緊急時には最悪の事態を想定して手を打ってゆく」ということが危機管理の要諦だと言われます。問題は「最悪の事態」の内実です。今回の原発事故で起こりうる「最悪の事態」は、決して「国民の生命、身体、財産が極めて重大な侵害を受ける」ということではありませんでした。「最悪の事態」とは「原発村の利権が損なわれ、国や東電の責任が徹底的に追及され、補償が償いきれないほどの天文学的な数字に上ることがばればれになること」でした。従って、事故当初から事故をできるだけ小さく見せかける、補償をできるだけケチるという目的に沿う形で様々な情報操作、行政のサボタージュが、まるで裏マニュアルが存在するかのように整然と行われてきたといえるでしょう。全く日本の官僚機構というのは、血も涙も無く、辟易するほど素晴らしく優秀です。
そして、福島の農民に取られた措置も実に素早くそして過酷なものでした。一体何が起こっているのかはっきりとつかめないまま、農民は作付けをし、損害が生じた場合にのみ補償が行われるという箍(たが)をがっちりと嵌められ、事実上作付けを強制されました。福島の農民達は、上述したように、3重の意味で生活の基盤を徹底的に破壊されました。そのどれ一つとしてまともに補償されること無く遺棄と搾取のただなかに打ち捨てられています。それが故に生活の糧を得るためには、東電、国ががっちりと嵌めた箍の中でのみ生きざるを得ないという状況に追い込まれ、今も追い込まれています。そして、まさに責任を取るべき東電、国、県などを免責するために作物を作り、売らざるを得ません。そして、東電、国などが余りにも強大なため、それに抵抗することができず、逆に「福島産」を買い控える消費者や核汚染物質の危険を真っ当に危惧する発言者に敵意を向け「風評被害」という東電・国・地方行政権力とマスメディアなどが結託してでっち上げた「業界用語」を口にせざるを得ない状況に追い込まれています。
今現在、幾つかの農家や農協の話を聞いてみても本当にどの農家が困っているのかが判然としません。作っている作物の種類、販路、専業か兼業かなどの条件によって、その困難の軽重が違っているようなのです。例えばお米は農協が前年よりも高い値段で買い取ってくれます。しかし、果物は徹底的に買い叩かれています。農協にどれだけ納めるかで米農家それぞれでも雲泥の差が出ます。農協は売れなかった場合の補償を東電に請求するかといえばそこは口を濁します。かと思うと足柄茶の農協に対しては多額の補償金が決まったとの報道がされています。最も甚大な被害を被っているのは、土作りに多大な努力を費やし、低農薬有機農法を行い、販路も独自に開発してきた独立心に満ち溢れた専業農家です。確証は得られていませんが、補償を差別的に行うことによって農家同士でも分断が図られているのではないでしょうか。例えば権力迎合的な農家と独立を尊ぶ農家との分断です。消費者や給食を食べる子供の親は福島県産の農作物を食べる食べないという踏み絵を踏まされ、分断されています。そして、その農作物を供給する農家も、補償や販路で分断されているという二重構造が出来上がっているようです。
今年の作付け制限は水稲に限られるということが農水省から発表されました。これからも、福島県の農民が東電・国が設定した箍(たが)の中でのみ、もがいてる限り農業の滅亡は避けられないでしょう。それなりに資力、体力のある農家は生き残るかもしれませんが、それ以外は淘汰されてゆくでしょう。生産地表示の必要が無い、加工品や外食産業で買い叩かれながらも、何とか活路を見つけて行く農家もあるでしょう。しかし、政府はTPP参加を規定の事実として推進するようです。福島県選出の玄葉が外務大臣となって旗振り役を務めています。ただでさえ弱体化している福島の農業はTPPによって、木っ端微塵に破壊され跡形も無く消えうせるでしょう。
ようやく、裁判で損害賠償請求をする農業者が出てきました。福島の汚染された土地に見切りをつけ、新天地を求める農家も出てきました。
「風評被害を払拭するために徹底的に除染する」という言葉ほど矛盾したものはありません。本当に「風評被害」、つまり根拠のない悪評によってのみ被害を被っているというのなら、そもそも除染なんて必要ないはずです。「風評被害」という言葉は何よりもまず、農家が被った土地、作物、ブランド価値への東電・国による侵害を見えなくする言葉です。そして、その責任を消費者にすり替えるため、原発村が発明した「業界用語」です。「風評被害」という言葉を破棄し、東電・国による分断政策を乗り越え、がっちりと嵌められた箍(たが)を粉砕し、農業者の連帯を紡ぐこと無しに、福島の農業者が生き残るのは難しいでしょう。
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