原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/04/19

11.無知だった私が避難を決めた理由

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昨年の秋。毎日が過ぎていくと同時に、あの震災のことも、原発事故のことも、少しずつ色褪せ、私の気持ちの中では葛藤ばかりが続いていました。

昨年の秋。毎日が過ぎていくと同時に、あの震災のことも、原発事故のことも、少しずつ色褪せ、私の気持ちの中では葛藤ばかりが続いていました。

毎日毎日、除染や原発の問題がありながらの福島応援、地産地消・・・ぐるぐる同じような揉め事ばかりが続きました。

テレビでは、毎日の放射線量が天気予報のように、当たり前に流れていました。「ああ、今日は1.0切ったから下がったね」「昨日より高いね」と言う会話が動揺も無く普通にある光景でした。

1.0μSv/hなんてとっくに放射線管理区域でここにはいちゃいけないんだよと、しかもそれは空間線量で、土壌や山なんかもっと高いんだからやばいんだよと、周りに何度言ったことか。「へ~そうなんだ」程度にしか思ってもらえません。痛くも痒くもないから仕方ありませんが。

でも、うちの両親の考えは、思いのほか意識していて、食べ物や水は、結構気をつけてくれていました。

測定をやっていると、笑われました。

娘の部屋を測っていたら、「やめて、もう入ってこないで!」と娘は言いました。

雨樋のコンクリートの所がとても高かったので「ここ、線量が高いよ」と教えると、「高いって言われたって、じゃあどうしたらいいんだよ」と聞かれました。ただ現実を知りたい、伝えたいだけなのに、ただただ苦しくなっていくばかりでした。

本当のことを言っているのに、何故こんなに苦しまなくちゃいけないのかわかりませんでした。本当のことも、放射線のことも、だんだん言えない空気になっていました。

家にいるのに、私だけ浮いてる。

その町に住んでいるのに、周りの人達はみんな笑ってる。

私は知らず知らずのうちに、普通に笑えなくなっていました。

でも納得いかないことは、本を買い、講演を聴き、ネットで調べたりをずっと続けていました。

私がおかしいのだろうかと何度も思いました。

もしかしたら、私が間違っているんだろうかと思いました。

でも、いくら考えても気持ちは変わりませんでした。何度も自分の中で確認していました。

疲れて、自分さえ我慢してしまえばいいんだと思い、もう考えないようにしようと切り替えて仕事をしていたときもありました。

避難すれば家族はばらばらになるし、子ども達も行きたいなんて言わないし思ってもいない、みんなこうして普通に生活しているんだからと・・・でももう黙って家族に被曝をさせている自分が許せなくなっていました。

だんだん私の中で「避難」ということを考え始めていました。

福島の避難者は現在6万人以上にのぼり、今も避難者は増え続けていますが、戻らなければならない人もいます。家族がほとんどバラバラの状態で、母子だけ避難し父親が地元に残るというケースが多いと聞いています。ただ日が経ち、ニュースでも取り上げられなくなって、意識が薄れ、大丈夫だと思っている大人達が、本当に多いです。なるようにしかならないと思う人が。意識をしていない大人が。これは、実際今までに無かった事が目の前に起こっていて、そこで仕事をしなければならない状況にあって、生活をそこでしなければならない柵があれば、信じたくないと言う気持ちになるのかもしれませんが、なぜそんな気持ちのまま生活をしなければならないのかと、強く政府や東電に抗議したい気持ちでいっぱいでした。

だから意識する人間が、熱が冷めないよう、一人でも多くの人の意識を変えるような行動を続けるしかありません。

私は元々避難や疎開など全く考えていなかった人間です。避難するなんて出来るわけがないと思っていました。むしろ避難なんて神経質すぎるんじゃないかと考えてたぐらいでした。それはただ「無知」だったからです。放射能のことや、原発のことなど、今まで何の意識もしていなかったからです。昨年の3月、放射能で汚染された土地で生活をしていると解り、ほうれん草や牛乳に制限がかかった時点で、何も知らなかった私ですら腹が立ちました。解らないことはまだまだ山ほどありますが、震災から今まで、本当に毎日が勉強で、知るたびに怒りが湧いて、でも冷静に判断するほか無いこの環境が本当にもどかしくてたまりませんでした。

放射性物質のことを調べて、ネットの情報とテレビや新聞、市政だよりの情報を比較していましたがあきらかに国が私達を落ち着かせようと必死なんだと解りました。

法律に反したやり方を国が平気でしていることが解ったとき、身体の震えがとまらなくなりました。この国は、平気で国民を切り捨てるんだと。

仕事、子どもの学校、両親、友達、たくさんの繋がり、これは誰もがある当たり前の環境です。「避難」を自主的にすることは本当に勇気と行動力が必要で、周りの助けが必要で、家族や会社の理解も必要で…本当に簡単じゃないんです。

理解しあえればいいけど、ほとんどは夫婦間や家族間、親子間の意見の食い違いがあり、ケンカになるなとわかれば尚更避難など考えられなくなります。そして、ほとんどの人達は諦めてしまいます。

私が「避難」を決めたきっかけは、長女の高校受験と、海外に単身赴任する主人の言葉でした。

主人にはメールで福島の状況は伝えていましたが、顔をみれば特別会話が弾まない夫婦だったのが、離れてからはメールや電話のやりとりで、逆にしっかり話ができたとゆうか、お互いに気持ちが伝わっていたように思います。海外でも週刊誌やネットで情報を入れたり、私の活動も見ていてくれていたようです。

私自身の仕事がどうしてもひっかかり、なかなか避難を決められない私のメールを読んで主人は11月、電話をくれました。

「お前はなんのために仕事してるんだ?とにかく俺は動くわけにはいかない、なんとか俺の給料だけで切り詰めてやってみろよ、なんかあったら、その時考えればいい、なんとでもなるから」

本当は「なんとでもなるとか他人事みたいに、やりくりしてるのは私だよ…」とか、たくさん言いたかったはずなのに、何故かその言葉で急にホッと肩の荷がおりて、涙が溢れました。

お金は大変でもまず動かなければなにも変わらないと確信し、背中を押され、揺れていた気持ちが定まりました。

お客様相手の仕事で尚更人との繋がりもありました。ちゃっかり仕事の合間に署名活動とかチラシ配りとかしていたので、会社には申し訳ないと思いながら罪悪感はありませんでした。でも避難するなんて言ったら自分だけいくのかとか、逃げるのかとか思われるんじゃないか、戻るときによく戻ってこれるなと思われるんじゃないか、そういう怖さは常にありましたが、周りの人達はそうじゃなくて、「馨さんが決めたならそのほうがいい、動けるなら避難したほうが正解だよ」と言う方が多くて、余計辛くなりました。

でも私は、子どものため今だけでもと、離れる決意をしました。

温度差が生まれ分断してしまうのは、相手の気持ちや立場を考えないだけ、言い方やり方ひとつです。

避難したから安心なわけがないんです。本当は誰でも自分のうちにいたいですよ。だけど避難する理由があるから避難するんです。しなくちゃいけないからしているんです。

避難出来ないのは避難できない理由があるんです。

でも、どちらをとっても色々な問題はあるんです。

始めは、高校生になる長女も連れて行くつもりでいました。でも、娘は福島の高校に行きたいとききませんでした。当然の事と思っています。親がいくら子どもの将来を心配しても、思春期の娘にとっては、この状況で見知らぬ土地に引っ越すなど、ありえないこととしか受け止めることができません。たくさん話し合いましたが、娘の気持ちは変わりませんでした。

悩みました。本当に悩みました。

でも、今の家以外に行く場所があれば、なにかあったらみんなもすぐ行けると、そういう場所を作らなくちゃいけないという思いが湧き、避難を決断しました。

同居だったため、娘はそのまま、祖父母と生活することになりました。

そして下の子3人と私は、京都に避難をしました。

言い続けることは必ず人を動かすと信じていいんです。私もそう信じて福島にいる家族や長女、友達、海外にいる主人にも、真実を伝え続けています。

気持ちをひとつにするために、離れた溝を埋めていくこともしなくてはいけない、脱原発に力を入れることも、放射能から命を守ることも、同時進行が理想です。

それぞれが、出来ることをする、今はそれだけです。

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