原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

No.15

2012/08/25

2012年の夏

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思考停止状態だった。
続けていたことがピタリと止まった。
やるべきことが色々あるのに。
気持ちを駆り立てる課題が山積みなのに。
でも、何にもしたくなかった。
気持ちが起きなかった。
疲れていた。
友人から批判されたり、当たり前の生活や仕事が手につかなかったり、落ち着かない自分がいたり、もしかしたら私の考えはおかしいのかもしれない、自分が一体なにをしたいのかも、解らなくなってしまった。
今までやったことがないことをこなしているからかもしれないが、すべて投げたして、なにも考えずにいたかった。
自宅敷地の線量は未だ通常の20倍以上、高いところで100倍以上もの数値を示し、除染も進まない。
避難はしないと決めた高校生の長女を親に任せて、私は下の子ども達三人を連れ京都に避難をし、そこで生活をしている。
少なくとも、避難など考えたこともなかったのに、結局避難という決断をした。
避難するまでには、色んなことが沢山あった。
家族や子どもの説得。
学校の先生との話し合い。
お金の工面。
長女を置いてゆくのは一番苦しかった。
娘も説得できなくて情けなかった。
積み立てを全部やめて、続けたかった営業の仕事も、せっかく資格をとったばっかりなのに辞めた。
正直自分は馬鹿だと思った。
後悔するかもしれないとも思った。
今までお世話になったお客さんを、強制避難で仮設に住む同僚に引き継ぐことなどとても出来ないと思いながらも、申し訳ないと頭を下げながら退職した。
私の収入はなくなった。取得したばかりの資格も失った。
自分で決めたことだが悔しくて仕方なかった。
でもそれでも避難を決意して動くことが先だった。
何故か世間一般は、避難はお金の余裕がある人とか、動ける人とか思われているようだ。
お金がある人・・・確かにお金があればポンとどこへでも行けるだろう。
でも本当にそうだろうか。
お金にゆとりあっても動かない人はいる。
そして動けるというが、簡単なことじゃない。
そもそも動きたくないのにどうして動かなければならないかを知って欲しい。
たくさんの「動きようがない」状況から「なんとか動かなければならない」と自分に言い聞かせて、今まで動けない動けないと思いこんでいた考えを一つずつ動く方にシフトして、それでも右往左往しながら、未だに悩みながら避難生活をしている人は結構いる。というか自分もそう。

ただ、動きたくても本当に動けない人々も明らかにたくさんいる。
親が介護状態だったり、自営業で給料を払わなければいけない立場でそれで生計を立てていたりすれば、そう投げ出すわけにはいかない。
私自身も生活を変えるなど到底無理と思っていた。
だから昨年は相談していた歯医者の先生が企画してくださった「保養」に参加していた。子どもだけというわけにはいかず親にも頼むことができなかったので、結局有給を使って仕事を休み、自分がついていくしかなかった。
でも無関心な人には「旅行」と言われた。みんながみんな行けたわけじゃなかったし、当然「なんであそこの子は行けてうちの子はいけないの!?」と言われても仕方がなかった。
しかし動いている人達は時間を費やし、何かの犠牲を払って、努力をしていることもあまり知られていない。早い段階で動いている人の中では支援する側の立場になって活動している人がたくさんいるし、東電から補償が出たのも、動いてくれた人達がいたからだ。各地でデモや訴えを起こしているが、なかなかそういう場にも出向けない人は、知っていてほしい。
保養も本当のところは、行きたい人がみんな行けたらいいのに、申し込みから外れてしまったりして、分断が起きてしまう。
今年の夏は、昨年より人数が増えた保養もあれば、全く申し込みがない保養もあったそうだ。本当はもっと福島の子どもたちも参加させたかったのに、福島以外からの問い合わせばかりだったとも聞いた。
決して被曝の可能性がある場所は福島だけに留まったことではないから当然なのだが、福島は大丈夫と思わされているから保養に出すのも難しい。
そういえば、「保養」という言葉をしらないマスコミの人もいた。
びっくりした。
せめてマスコミの人間ぐらいは、福島の状況を知っていてほしいと思うが、時間とともに無関心にさせられてゆくのは本当に辛い。
土地が離れていればいるほどそうなのかもしれないが、福島でなかなか声をあげることが出来ない訳だから、それは当然な現象なのかもしれない。
引っ越してから半年以上。
あの事故から一年半経とうとしてる。
強い願いと反比例して、風化し、少しずつ忘れ去られてゆく。
決して忘れないと言い聞かせても、時間はだんだんと忘れさせてしまうものだ。
もしかしたら自分もそうなのかもしれない。
というかむしろもう忘れたいぐらいだ。
でもしっかり向き合わなければ流されていくだけ。
たまに福島に帰る。
その時は必ず友人と飲む。
そして、他愛もない話で盛り上がる。
そういう時間は、何にも代え難いほどの癒やしで、すごくリラックスしている自分がいた。
放射線量云々の話などよりも、私には大切だった。
そのことは、子ども達がいつも素直に言っていた。
「友達と離れたくない。」
そんなの、大人だって同じなんだ。
だから京都に戻ってくる時は一番切ない。
息子に「あー行きたくない」と毎回言われる。
その通り、本当は私だって行きたくない。
福島に帰ればみんな、震災前と同じような生活がある。
どこか違和感を感じながらも、何もなかったかのような空気が、帰った私達を迎える。
いつものように受け入れてくれる。
でもなんとなく、人の顔色を伺っているように思えた。
多分私自身もそうなってしまってるからかもしれないが。
普段余計なことを考えてばかりいるから、せめてうちに帰ったときぐらい、何も考えないでいたいから、余計な情報はいらないという気持ちになっていた。
正直、何の為に避難したんだろうと、ふと我に返り、また自分に言い聞かせているような状況。
そんなことの繰り返し。
弱い自分なのかもしれないけど、美味しいものを食べて美味しいと感じるように、地元に帰れば誰しも気持ちが落ち着く場所なのだから、ホッとするに決まってる。
単純に本能。
その本能までも、いろんな情報が邪魔をして、うまくコントロール出来ないでいる。
なにが真実の情報かも解らない、その情報に何らかの裏があるんじゃないか、そんな、世間体を見ながら編集された報道に振り回されるのが、本当に馬鹿げてくる。
そんなのに惑わされている間に、することは幾らでもあるんだから、要は今やるべきことを優先順位をつけてやるとするならば、我が子と一緒にいる時間を、家族と一緒にいる時間を大事にしたほうが、よっぽどいい訳だ。
でも、福島で気になった。何度見渡しても同じ状況だった。
福島の殆どの人達は悶々とした思いを抱きながらの生活を毎日毎日送っている気がした。
福島駅周辺の屋外は、小さな子どもを連れた大人が本当に少ない、と言うよりいないに近い。
毎回福島に帰ってきて街に行くのだが毎回だ。むしろ、子どもを連れてると逆にびっくりされるような状況じゃないかと思ったほどだ。極端だ、大袈裟だという人もいるかもしれないがよく現実をみつめてほしい。
たまに福島に来る親戚とも驚いていた。
「ほんといないね・・・」と。
中学生や高校生は普通に歩いている。
ちょっと郊外や田舎に行けば、子どもが普通に遊んでいるのを見かけたりする。
悶々したくないから考えないようにしてる人、最初から考えていない人もいるだろう。子どもにわざわざ放射能のことなど教えない親もいるそうだ。
よそはよそ、うちはうちなのだろうから自由だが。
目の前に食べたい物があれば食欲の方が絶対的に強い。見た目も味も変わらないのなら尚更。
食べたら、少しでも余計な被曝はしませんようにと願いながら、福島県産の食べ物を食べ、排毒できることを実行してみたりする。
どれもこれも、目に見えないことを信じながら、考え実行しているだけ。
まるでバーチャルの世界みたい。何やってんだかって気持ちにもなる。
私達はそうやって、いつの間にか動かされ生きてきた。ねじ曲がった概念も、知らないうちに染み付いて、いいことも悪いことも、うまく人間の心理を突いて入り込んでくる。
そして無意識のまま気づいた時には、人間の根本的な生き方や、必要なことが、見えなくなってしまっていた。
「そんな世の中だったんだ…」と、震災や原発事故でさらに思い知らされた。
デモや抗議をどれだけやっても、政府や電力会社などの体質はそう簡単に変わるわけはない。「変わるわけはない」と思わされているだけかもしれないが、本当にくだらない話し合いばっかりだ。
ただの時間稼ぎ。
彼らは違う手を目論み、またうまい言葉遊びを考えて、私達国民を牛耳ってゆく。
パンダやアザラシのニュースを観るたびに、強制的に殺された避難区域の動物達のことと重なり、違和感を覚えた。亡くなった一匹の赤ちゃんパンダが可哀想にとたくさんの花を手向けられているのに、飯舘村の鶏や豚や牛はどうなんだろうと。
そんなことでニュースになるなら、人間が仕出かした原発のせいで死んでいった動物達なんかもっともっと取り上げて報道するべきじゃないのか。
しかし原発作業員の人々やご家族の思いを知れば生活が掛かっていて、線量のことで言えば原発の側と比較すれば福島市や郡山市あたりは低いわけで、でも、その「低い数値」は遥かに法律違反した高い線量なわけで、法律上は子どもたちがそこに存在していてはいけないのだ。その場その場で「高い」「低い」の解釈が違い、思いも変わってくる。
ややこしい。
ややこしいが、その場所で今いったい何が起きているのかを、もっと広い目で、その場所に住む人自体がまず現実を知らなければならない。
ならないのだけど…。
福島市のある場所で桃を売る農家さんに出逢った。
一緒にいた親戚は、昨年桃が食べられなかったからと、知り合いに送るのに箱で買っていた。他にも買っている年配の人が何人かいた。販売しているおばさんと話しているうちに、色々考えはありながら自分も買わなければ申し訳ない気持ちになっていた。いくら食品の放射性物質検査をしていなくても、こんなに頑張ってると思うと、私だけ食べればいいと思いながら買っている人は少なくないと思う。
気にはなる。でも毎回毎回こんなモヤモヤしてたらキリがない。
だからってそこで親戚に「買わないほうがいい」など言えない。色んな思いを知っているから。そして親戚だって私が避難していることを心配して受け止めてくれているから。
一人一人の福島の人達と向き合ったら、もっともっと苦しい立場で悩み続けている人がたくさんいるはずだ。
口に出しては言えないだけで。
福島にいても京都にいても、きっとどこにいても私は変わらない。
ただ、何も知らない子どもは、線量の低い場所に住む子どもよりもリスクを背負って生きていかなければならない。その場所がいくらお友達がいて居心地がよくても。
そこから動かせるのは、親や大人しかいない。
本当にこれでよかったのか、今も葛藤が続いているけれど、続けるしかない。
前に進むしかない。
なのに「結局自己満足でしょう」と言われることもある。
この状況下でどう満足できるというのか教えて欲しい。
とにかく身内同士の揉め事だけは見苦しいからやめたい。
本当は地元にいたいということ。
私達が生活していた場所にいたいということ。
それは以前から変わりない。
もう時期的に保養の形も、もっと柔軟で、参加する側も一緒に企画できるような体制の方が、分断がなくていいのではないか。
支援者と被災者の壁もまだまだある。
そこを無くすには、もっとコミュニケーションを取らなければ変化は期待できないだろう。
なんだかただの愚痴かもしれないが、自分がその時その時どう思い感じていたかは素直に記録に残しておきたい。
きっとなにか見えてくる。
ここに書き留め、少し気持ちが整理できてきた気がする。

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