原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/05/15

13. 家族・娘に対する想い

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福島から京都に移り、4ヶ月が経ちました。

福島には、両親、兄弟、親戚、友達、殆どの人が生活しています。そして私の一番上の娘も、祖父母と一緒に生活し、福島の高校に通っています。

私が動くことを決断した時期が昨年の秋で、何故こんな時期にと、周りからはどうしてと言う疑問の声もあったりしました。

それを説明するだけでも時間をかけないと容易に伝わらないし、会社の引継ぎにも、子ども達の学校の一人一人の担任の先生とも話さなければならず、一日一日がとても貴重でした。転校、退職、あいさつ回り、それに労力を使ってまで動かなければならない理由は、今まで9ヶ月以上悩んだ問題があったからでした。

この国は飄々と法律違反を犯しながら、彼らは汚染された土地には住まず机の上だけで計算し、国会の中ではくだらない長丁場の答弁を毎日のように繰り返し、何も知らない私達には、子どもや妊婦にさえも何の防御もさせず、除染などさっぱり進まない環境の中を平気で居住させ、こんなにも時間をかけ風化させてしまい、世間一般には何も考えさせないような空気を作り上げ続けていることを、とにかく皆にもっと気付いてほしくて毎日動いていたにもかかわらず、自分の理想とは逆に、周りは国の理想通りの方向へと向かっていることが、もう限界でした。

でも、自分のここ福島での生活を崩すなんて正直全く考えられませんでした。こんなにいろんな情報が入っていても、目に見えないし何も感じられない放射能など、怖いと思いませんでしたし、ただ測定したり発表になっている数値でしか気持ちが動かされないもので、日々変わるし、機種によっても数値が違ってきたりするためか、半信半疑なところもありました。しかし、本当は私達が住んではいけない環境であると言うことだけは明らかでした。

そんな場所で面倒な問題を考えてばかりいたら世間一般の人はやっていられませんし、生活などできるわけがありません。それは当然ですが、元々原子力を推進してきた人間達は、その人間の心理や行動や考え方まで、すべて計算に入れていました。

特に田舎は、土地に執着があるために、何が起こったとしても動かないだろうという予測を立てられていましたから、出来るだけ被害を小さくしたいですし、その方が原発を作りたい彼らには本当に都合のいい地域だったのです。

結局は数字だけが私達の気持ちを動かしているだけで、それがどれだけ厄介なものか、これは放射線量の高いところにずっと生活してみて、体験しなければ解らないものだと知りました。

通常自然界に元々存在する放射線を浴びて被曝をすることと、人工的にばら撒かれた放射性物質により被曝することを、同じだなどと考えたり、タバコや酒などのほうが身体にもっと悪いなど、何気に話をすりかえるような専門家達はまず信憑性に欠けると、私の中では除外していました。

原発で働く人達だって、医療現場の人達だって、官僚の人間だって、線量の高い地域で長く生活をするなんて、そんな体験今までしていません。足が付くところが空間線量よりも高いだなんて、普通の環境じゃなかなかないし、これだけ広大な除染なんか未だかつてやったことが無いんですから、そんな環境に人間を住まわせていいはずが無いんです。

でも今、それを私達は体験させられ続けています。

何も感じ取ることの出来ないものをいいことに、黙々と疫学調査は進められているのです。

それなのに私達国民は、世の中が今どうなっているかなど、そんなことよりも、それぞれの生活が一番大切で、それぞれの思いで生きていく事を選ぶしかできないのです。そう思考を変えたほうが家族のためかもしれないからです。

本当は第三者の目や、客観的な視点で見た今の私達の現状をよく知ることは必要なのかもしれません。

でももしその問題に気が付いたとしても、それは将来を担う人達に関わることで、自分達が解決できる内容なんかじゃないことだと思い込んでしまうのです。そうなればもう、考えなくなって、自分の管轄じゃないからと、目を背けてしまうのが本能かもしれません。

いつからこうなってしまったのか、現代に生きる人間は、大人も子どもも、目の前のことだけしか見られなくなってしまいました。

冷静すぎて、クールなのがかっこよく感じたり、人の温かさみたいなものが欠けて来ていると、日々感じていました。

それは震災があったからではなくもっと前から、人間が間違った「進化」を続けてきてしまって、ようやくその間違いに気付き始めてきた人が僅かに増えてきたところと言った感じです。

でもそれは、大人は気付けるかもしれませんが、大概子どもは大人が教えなければそれを知るのは難しいかもしれません。

子どもと言っても、大人の言い分がなかなか伝わらない年頃だってあります。

その子どもに、いきなり今の世の中のことを知れと言ってもそう簡単には入っていきません。親に反発する年代は尚更です。

私は、この原発事故が起きて、状況もよく解っておらず、子ども達に説明してあげることが、殆ど出来ていませんでした。

テレビや新聞を信用して、ネットでは状況が違っていたので、なんかおかしいとは思っていましたが、ネットに振り回されたくないとも思っていました。放射能がどうのと騒ぎ立てる意味など、全く知りませんでした。

ただ、新聞を毎日眺めていて、大丈夫とか問題ないといった言葉があまりにも多く、測定の仕方も、こないだまでは地面を測定していたのに次の日は50cmの高さに変更し測りだしたり、線量が毎日変わるのに、屋外制限の基準を3.8に決めて、それ以下は普通に生活してくださいと指示を出したり、信じられないことが次々起こっていたので、本当に大丈夫なのかと、それでも振り回されたくないと言う気持ちがありました。もちろん震災直後は心配で外に出ないように気をつけていましたが、子ども達は1週間もすればストレスが溜まって、「外に行きたい」と言うようになりました。長女は自分でネットを使えるので、ネットで調べて自分なりの解釈をしていました。それが正しかったのか、間違っていたのかも、その時の私には解りませんでしたから、娘に何の説明も出来ませんでした。

原発について考えるなんて、全くと言っていいほどありませんでした。

私の原発に対する勉強が始まったのは、震災から何日か過ぎてからでした。

こんな状況では、当初に避難しようなんて思うわけがありません。

高校生になる長女を、私は本当は一緒に連れてきたかった、無理矢理にでも、連れてくればよかったとも思いました。

でも、連れてきた子ども達も、誰も「行きたい」なんて言う訳がありませんでした。私も同じ気持ちでしたから子どもは当たり前ですが、どうして動かなければならないか、その理由は、長女にはなかなか伝えることが出来ませんでした。

絶対に、動かなければならないのか?どうして子どもだけなのか?親達だって周りの友達だって皆居るのに、私達だけ動いていいのか?

娘は、友達に本当に恵まれていました。その友達と離れることが、どれだけ辛いかは、私も十分知っていましたし、私自身も、友達と離れるのが嫌でした。そんな、何も感じない放射線なんかより、昔からあったもっと根深い人間関係とその環境のほうが、いくら汚染されていたって大事なものなんだということを痛感していました。

幸い、うちの場合は両親も健在で、避難するときも、時間が経っていたせいか、本当に協力的でした。今までの線量ではないのですから、行けるのならば行ったほうがいいという気持ちは、うちの周りの大人達にもあったはずです。それが実行できるかできないかを自分が決めるしかありませんでした。

私には義理の弟が居ますが、弟はいつも子ども達の面倒をよく見てくれていたので、本当に助かっていました。だからこそなのかもしれませんが、避難することにはだいぶ反対されました。どうしていくんだと。子ども達や私を、そして両親のことも心配してくれていました。精神的には、かなり追い詰められた状態でした。弟の思いが本当に解っていたからです。私も家から離れたくなかったし仕事だって辞めるつもりなどなかったし、頭の中では毎日毎日葛藤していましたから、出来ることなら普通に生活していたいという思いが一番ありました。何度も何度も話しました。それを押し切ったような形で動いたかもしれませんが、私は家族のことを思わなかった日などありません。家族が居なかったら、避難なんてできませんでしたから。

今は弟が、娘の学校の送り迎えを毎日やってくれています。お母さんもお父さんも、娘を心配しながら接してくれています。

だから離れていてもすぐそばに居ると思いながら生活するようにしています。

でも最近娘にはなかなかうまく話すことが出来ずに居ます。情けない親です。娘がこんなに遠く感じたことはありませんでした。離れる時、お互いに理解していたと思っていたけれど、離れてしまうとなかなかコミュニケーションをとるのが難しく、子どもはそうじゃないんだなとつくづく感じています。私がすることがうざったく感じているようです。

娘に言われました。子どもを守るなんて、子どもの気持ちも考えずによく言うよと。本当にそうだと思います。何度か、娘にはダメだしされているので、本当に頼りない母親だと思われているかもしれません。それぐらい、大きく成長したんだと思っていましたが、どうしてこんなことになってしまったんだろうと悔しさでいっぱいになります。

娘は、もしも奇形児が生まれても、ママには迷惑かけないからと言いました。娘にそんな言葉を言わせるなんて、考えたことも無かったので、言葉が見つかりませんでした。今でも思い出すと胸が苦しくなって息が詰まります。娘にはそれぐらいの覚悟があったのです。でも私は、もし奇形児が生まれても、ママは面倒見るよと言いました。

娘とは今、気持ちが遠く離れているかもしれませんが、一番心配なのは、福島で頑張る娘です。

でも、そんな娘を、私は心から誇りに思っています。

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